平成29年7月12日

 

 

 

意 見 陳 述 書

 

 

 

原 告  海 保   寛

 

 

 

1 はじめに

 

  私は、ここに一冊の本を持ってきています。これは、私が昭和41年に裁判官に任官する際に、司法研修所から配布を受けた「民事判決書について」という白表紙の本です。この本の最後にこのようなことが記載されています。

 

 

「裁判官は、二つの塩を持たなければならない。()()の塩を…固陋(ころう)にならないために。良心の塩を…悪魔にならないために。」

 

 

  裁判官としての心得や良心については、いろいろな説明がなされていますが、この言葉ほど私の心に響いたものはありません。

 

  先の大戦後、新憲法の下で新しく発足した司法研修所の教官がどのような思いを込めてこの言葉を後輩裁判官に託したか。 

 

以来、私は、鹿児島の所長を最後に定年退官するまで、持ち歩きました。

 

  戦後、あらゆる分野で戦争責任が論じられましたが、本来責任を負わなければならない政治家、軍人、経済人、知識人等は自己の保身から自らの責任を問うことをせず、沈黙し、あるいは、曖昧な言い逃れの弁解に終始しました。

 

そのような中で、戦時中裁判官であった現役裁判官の中から「裁判官の戦争責任」の問題が取り上げられました。

 

 

その中で、裁判官の間でも裁判官の独立、公正を建前としながら、「行政や検察とともに統制ある裁判をするのが戦時下に要請された司法の役割である」という思想、風潮があったと言っています。実際、思想検事に同調した悪名高い裁判官もおりました。もとより、河合栄次郎事件の一審裁判官のように、そのような考えに同調せず、独立、公正な裁判をした裁判官もおりました。

 

「裁判官の戦争責任」について語った裁判官には、裁判官が行政や警察、検察とともに国政を歪め、国民の権利を侵害した戦時下の失敗を繰り返してはならないという共通の思いがありました。

 

 

2 戦争の恐怖と欠乏の体験から私が得たもの

 

  私の戦争体験は、度重なる空襲の恐怖、とりわけ3月10日の東京大空襲の恐怖と集団疎開中の飢え、疎開中に空襲で両親を亡くした友達の悲しみです

 

  この体験が私のその後の考え方、生き方の根っことなりました。

 

私がUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民救援やプランジャパン(旧フォスター・プラン)の支援を続けているのも私のそうした体験からです。

 

特に、中学生の時に起きた朝鮮戦争は、私に何故戦争は起きるのか、知識人は何故戦争を止めることができないのか、戦争を止める方法はないのか、という疑問を起こさせました。

 

 

3 戦争の火の消し方について

 

  誰でも戦争の悲惨さを知っています。戦争論についてはいろいろな文献もあり、詳しい人もいます。しかし、一旦起きた戦争の火の消し方について詳しい人は、私の知る限り、いません。

 

ひとたび戦争や武力衝突が起これば、それは拡大し、当事国や周辺国の国民に被害を増幅させながら行き着くところまで行かないと止みません。つまり、戦争や武力衝突が起きたらその火の消し方はないのです。

 

朝鮮戦争は、昭和28年7月27日に休戦協定が調印されましたが、あくまでも休戦であり、火種は消えていません。

 

戦争や武力衝突を回避する唯一の手段は戦争の火種を抱え込まないことです。

 

火種は必ず膨らみ暴発します。火種は見つけ次第消さなければなりません。どの程度に膨張したら消す、というようなものではないのです。

 

世界の軍縮は火種を小さくすることですが、その行く先に日本の憲法9条があります。

 

戦争や武力行使を回避するには、政府が戦争や武力行使の具体的行動を起こす前の段階しかありません。戦争や武力行使を可能とする火種の法律が成立したら、その段階で消さなければならないのです。

 

 

4 戦争のできる国への拉致

 

  憲法9条の改正の主張が一部の人々から唱えられ始めたころ、なによりも警戒しなければならないといわれたのが、政府や立法によるいわゆる「解釈改憲」です。「解釈」という名の下に事実上「改正」の目的を実現してしまう「解釈改憲」を「もぐりの改正」と言い、最も忌まわしい禁じ手といわれました。

 

憲法改正の手続における国民投票の制度は国民主権の原理を貫く上で絶対に必要なもので、日本国憲法の基本性格は何よりもその改正手続きの中に現れているといわれています。

 

戦争をしないことを憲法の基本原理として宣言した国が憲法改正手続を経ずに「解釈改憲」で安保法制法を作り、「戦争をする国」にしたことは、現憲法の下で統治されている「戦争をしない国」とは別の「戦争をする国」をつくり上げ、そこに国民を強制的に拉致するのと同じことです。

 

心ない者たちの「解釈改憲」の下で制定された安保法制法の国に引きずられることは、私には耐え難いことです。

 

現代の国家間・民族間の関係は複雑であり、また、兵器や武器は多様化し、かつ、高性能化しています。安保法制法の下では私たち国民が何時何処で攻撃され、被害に会うか分かりません。また、何時他国の人々に恐怖と欠乏を与えるか分かりません。それは単なる抽象的な危惧や不安感ではないのです。

 

 

5 終わりに

 

  今年五月三日の東京新聞朝刊に裁判官出身で最高裁判事になられた泉徳治さんの談話が載っていました。選挙制度に関するものでしたが、その中で、泉さんは、「憲法秩序を守るのは司法の役割である。」、「裁判所には、立法に関するものだから、あまり関与しない方が良いという考えがある。だが、司法が関与しなければ国政は歪められる。その失敗が日本で言えば第二次世界大戦だ。」と述べています。

 

  裁判官についてはいろいろな批判があります。しかし、私は、先輩裁判官の思いを受け継ぎ、独りよがりにならないための知慧と悪魔にならないための良心を持ち、憲法に従って、平和のうちに生存する国民の権利を守る裁判官がいると信じています。

 

  司法は、権力者にとって最も邪魔な存在ですが、国民にとっては最も信頼できる国家機関です。

 

 

以上が私のこの訴訟にかける思いです。